私とエクアドルバナナ
(株)ニュージャパンプロデュース
代表取締役 内海 晟
1969年2月、入社1年になっていない私にエクアドル出張を命ずるとの辞令が出た。
経験したことのない飛行機、それも海外出張、エクアドル、会社がバナナの輸入
を企画していたのは知っていたけれど、新入社員の私が、とは思ってもいなかった。
羽田から最初の中継地ホノルル、ロスアンゼルス、と乗り継いで、緊張の中エクアドルへ。
翌日エルオロ州のバナナ農園に着いた。
最初にびっくりしたのは、いきなり蚊の襲撃を受け閉口したこと、どの農園でも蚊がズボンの上からでも刺してくる。
当時はコンテナーなど影もなく、日本へバナナを運ぶには、傭船をしてリーファーボートで17-20万ケースを一度に集めるしかなく、新種のキャベンディッシュをエルオロから、
不足分をグアヤキルで、グロスミッシェル種を積んでスペースを埋めていた。
1973年までの4年間に、エクアドル出張を6回繰り返し、この間日本とエクアドルの滞在はほぼ半々、したがってエクアドルには2年くらいバナナを追って生活したことになる。
この間、1972年には日本のバナナ輸入数量が、エクアドル中心に103万トンを記録している。

昭和初期の市場の様子
全日青,(専業者,Noboa), 全芭連(加工業者,Ubesa), 伊青協(伊藤忠,Catsle&Cook),
住青協 (住友商事, Nafruco), 日エ協, (トーメン,柴田グループ,EFE),
豊青会(豊通, Conbaoro) の6輸入グループが存在し、しのぎを削っていた
*( )内の英文はエクアドル側のシッパー
その後、1974年以降は、フィリピンでバナナが近代的大規模経営栽培で生産されるようになり、日本市場の大半を占めるようになって、エクアドルバナナの日本向けは大幅に減っていった。
私の青春時代、約2年間をエクアドルで過ごしたこと、エクアドルが生涯で最初に
訪れた外国であり、バナナと格闘していたことなどがあって、エクアドルバナナは
いつまでたっても私の中では特別な存在になっている。

昭和初期の市場の様子